一方、無線七宝で有名な濤川惣助(1847年~1910年)は、省亭より5つ年上、二人は工芸家がめざましい地位向上を遂げることとなった明治期に活躍しました。
1887年(明治20年)東京美術学校が設立され、鋳金・彫刻・漆工などの工芸と絵画で、教授たちは同列に採用されました。明治維新で武士階級が崩壊した際、職を失った工芸家や仏師・彫師は多く、起立工商会社などで職人扱いだった人も、高い技術を持ちながら学校教育とは無縁でした。しかし、岡倉天心は、こうした人々に声を掛け、いきなり教授に招いたのです。
その中には、高村光雲、加納夏雄、岡崎雪聲や、浅草の老舗提灯屋の息子で象牙彫刻をしていた竹内久一などがいました。
このような時代の中、濤川惣助と渡辺省亭は工芸と絵画を切り離して考えず、緊密な連携によって突出した作品を生み出します。
渡辺省亭の原画
1893年(明治26年)(シカゴ万博出品)
近年、狩野探幽の墨画を参考にした渡辺省亭の原画と判明しています。
『七宝墨画月夜深林図額』 宮内庁三の丸尚蔵館
1900年(明治33年)パリ万博出品作となるこの作品は、前年宮内庁より内示を受けて制作されました。
(出品目録には省亭原画とした明確な記載がないといいます)
また、この明治33年のパリ万博には、渡辺省亭自身もに出品する予定でしたが、日本画の公募作品233点中55点の中には入りませんでした。明治22年のパリ万博には出品した実績がありましたが、このときは選から漏れたのです。
このころ帝室技芸員となっていた濤川惣助と、すでに表舞台を降りつつある省亭との社会的立場には差ができていたと思われますが、濤川惣助と渡辺省亭の共作は1910年(明治43年)の日英博覧会まで続きました。濤川が没したのはこの年の2月でした。
省亭が原画を描き、濤川が七宝に仕上げた代表作は、迎賓館赤坂離宮の海外からの賓客をもてなす「花鳥の間」と「小宴の間」にあります。
渡辺省亭のこの原画は東京国立博物館が所蔵しています。